気まぐれタンヒット

したしとが書いている雑記ブログです。

仕事をするのはかわいそう?




   早朝、兄が出勤の際にああしんどいしんどいと呟く姿を見て母親が可哀想にと言った。


   私は違和感を感じて、兄が出て行った後になんでかわいそうやねんと突っ込んでしまった。母は私が立て続けに質問すると、そんなん知らんわで終わることが多いので軽く言ったのだろう。誰かに訴えかけようという気持ちはない。母が家事をしに行った後、私は考え込んでしまった。だって1日の大半を使っているであろう仕事がかわいそうの一言で片付けられたなら唖然となっちゃうのだ。兄は働かせられているのではなく、働いている。対価が安いのかもしれない。体力が持たないのかもしれない。まず夜更かしを直そうや、と思いもしたが賃金や人間関係など得られるものが割に合わないにしても、かわいそうってのはキツイ。兄は売り場で声を出し過ぎて喉を潰すぐらいだから仕事に精を出していると私は思う。母はやらされていると感じたのだろう。
    疲れて仕事しているのかわいそうの流れで同じようにまた、別の兄が就職活動で炎天下の中貧血で倒れた話も何回も聞いた。

   頑張ってかわいそうに…。

   幼い頃から聞かされてきたので私にもそう思う気持ちが少しはあるが相手に言いはしない。自ら被害者に片足を置くと自然と加害者が生まれる。バランスが崩れる。兄が被害者なら誰が加害者なのだろうか。

   母親と同年代(60代)で私と同じ仕事場で働いているパートさんと話しているときに自然と、頑張っている私(パートさん)と私腹を肥やしているお偉いさんの構図になっていることに気づくことがある。ひとつの例は震災で予算が使われずに置いたままの話になると、誰かのお偉いさんの懐に入ることになるのだろうとなる。実際はどうだかわからないのに、自分の知らないところで誰かが楽をして悠々と暮らしているのを頭の中で作って一生懸命働く自分と対比させるのは辛いだけだ。

   とりあえずの被害者で得られるものは一時の安心感と惨めな気持ちぐらいだろう。こういった気持ちは共有されやすいので仲間も集まりやすい。頑張っている自負があるので素直な提案にさえ敏感になり、ヒステリックに言い返されたこともざらにある。一種の無敵状態だ。被害者に自らなろうとすると自分でどうにかしようという気持ちを捨て誰かの天邪鬼な行動に流されて生きていくしかなくなる。どちらに進もうとうまくいくかどうかわからないにしても、自分で選んで責任を持とうとする姿勢を捨てるようなものだ。唯一、責任の言葉に当てはまるものは自分が思うように生きられたかどうかしかないのではないか。好きなように生きようが少し嫌と感じつつ生きようが、誰もどうにもできないのだ。今の時代、どのような意見でも探せばすぐに行き着く。とりあえずの被害者を肯定するのには事欠かない。誰かの後を付いて行って、いい思いが出来る時代じゃなくなってきている。人生はやりたいことが出来るようになるか、間に合わずに死ぬかしかない。欲求を満たせなくても本人以外にとってはどうでもいいことだからだ。自分が何をやりたいか、実現するために何が出来るかを考えながら今日も大便が詰まった。

また来ます。