気まぐれタンヒット

したしとが書いている雑記ブログです。

自分の作品を楽しみたい

 お金を使って、質が高い作品を買いたい。わたしの好みと少しズレていても、それでも買いたい。自分で作ろうと思うと障害がたくさんあって、理想の作品を作れるのか分からない。特殊な技術が必要な場合もあり、また到底出来ないこともある。のだけれど。

 わたしは生産しているようで、していないようで給料を毎月もらっている。それなりに忙しい作業で給料をもらい、他人が作った商品を買って満足を得る。作業のマニュアルを作った人は仕組みを作り上げ賃金の安い労働者を動かし生産していく。出来上がった商品は差異しかない。差異段階に及ばない商品を作る人は別の作業を充てがわれ、そこでも出来なかった場合はしばらくして退職する。そんなことは稀とも言えないほど少ない。

 仕事に従事している人は何かしらの生産をしてお金に換えている。手紙を郵便番号別に仕分ける作業。大量に仕入れた材料を機械に投げ込み、出来上がった食品を袋詰めにする作業。出来合いの製品の入荷数をパソコンで調節する作業。お客さんから支払われたお金(それだけではないが省く)が決まった日に振り込まれる仕組みがあるから全て生産活動になる。独りで生きていくには少々工夫が必要だけれど、体力がある今のうちはやり繰りしていける。人間の活動はエネルギーを別の入れ物に変えて取っ替えっこしている。お金はひとつの目安として分かりやすい。他にも愛情や物で表すこともあるけれど、真っさらなお金というものは交換を何度繰り返しても価値が保証されているので、人を仲介すればするほど支払われた給料の数字の羅列に何の感慨も湧かなくなってくる。互換性が高い燃料。その少しの燃料をわたしはほどほどでやり繰りし毎日の生活を送っている。事足りていますかと聞かれれば、少し間を置きながらも、はいと答えるだろう。一瞬の問答で済ますには複雑すぎて、放り投げる。

 

 わたしが気にかけているのは自分が考えて作った作品に期待できない癖がついてしまっていること。作品に限らず、自分が作り出した人間関係にしてもだ。生活において人と人とを繋ぐために交換に差し出すモノを自分の色で染められずに、真っさらのお金を少しずつ交換することでしか日々を送れない。どうしても店頭に並んだ既製品、待ち行く人の幸せそうな顔と鏡に映る自分とを比べてしまい、たとえ時間と労力を使ってもモノにならない感じが心の中にある。達成した感覚が薄いから魅力を感じずに作らない。新しい一歩も二度足を踏む。それでいいのか、今の暮らしがいつまで続くか保証もないのにいいのか。自分が面白いと思った物事に尽くすべきなんじゃないか。でも、一瞬で消えるような興味に両足突っ込んでみても元の生活に戻るのがオチなんじゃないの。分かんないよ。特殊な技能もないわたしは人からの指示を受ける単純作業以外で生産活動ができるのだろーうか。そう問いかけても自分にしか答えられないよーーー。


 

自分の作品で楽しんで地産地消したいんです。