気まぐれタンヒット

したしとが書いている雑記ブログです。

ドラマわたしを離さないで最終話感想

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(イラストは深谷よりid:fukayan0628)

登場人物が言葉でだいたい説明しちゃいましたね。このテーマはあんましハッキリと言い切らないほうがいいんでないか。あのときのアレなんだったんだろうと思わせるに留めておいたほうが彼らが大切にしている宝箱みたく、我々が生きる上で携えていく何かにこの話がしまわれる終わりかたがいいんでないと思いました。

終盤の恭子とエミコ先生との会話はこのブログで書いてきたことと大差なかった。ここではいいかなと、野暮とは思いつつ書いていたものがエミコ先生から語られるとどうにも変な気持ちになる。思い返せばひとつひとつの部品にはそれなりの分かりやすい意味が込められていたから、余計にそう思ったのかもしれない。答え合わせをしたい話ではないのだ。

このブログの第1話感想で伊藤歩が主人公でいいと書いた。なぜあんな行動をしていたのかも今回で本人の口から語られるが、それにしても第1話では浮いていた。まるで視聴者が何も知らずあの世界に紛れ込んだかのようだった。目線が視聴者と同じ高さで物語に介入してくる役目なのだろうけど、知らなすぎでしょうよ。
今回の恭子やトモとの会話でこちらの見ている側、つまり視聴者や普通の人や製作者がこの話をこの世界にあるものとしてどのように落とし所を見つけていけばいいのかのひとつの答えを出すために伊藤歩がもう一度出てきた。それで少しうるっときてしまった。こんなトンピな話を作り手が良い物語として収めようとすると屍の上で感謝している人をどうにか探さなければいけない。設定としてあまりに土台が粗があるものでも私たちのやっていること、やっていくことは誰かの役に立っているんだと。それでやってきたことが許されるわけではないけれど、今ある事に向き合うには肯定出来うるところをどうにかして頭の中に作り上げねば過去に引きずられたままだ。提供者が逃れられない運命にあると分かったときに伊藤歩は振り切って反対側に走り出し、この物語の中で自分がどの地点にいるべきか探しあぐねていた。見ている視聴者はこんなことあるわけないと思ったり、逃げちゃえばいいのにと思えるだろう。でも、伊藤歩は視聴者の余りある気持ちを携えてこの世界に降り立って自分ひとりではもうどうにも出来ずにいるような、もうひとりの視聴者の分身みたいな存在に思えたのでこの最終話にてまた登場し恭子やトモに最後の欠片を渡す仕事を任されたことにうるっときて、心が動いちゃった。優しいギターの旋律がかつてのことを思い出す彼らを肯定しているようだった。こういう静かな、各々が「そうなんですねぇ……」とゆっくりと海底に沈み込んでいくようにしまい込んでいくシーンがあって良かったように思う。いいドラマでした。